私たちは「大峰山女人禁制」の開放をもとめます

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活動報告(2012年01月)
2011年10月9日田中利典さん(金峯修験本宗宗務総長)インタビュー
「大峰山女人禁制」の開放を求める会(以下「求める会」)は、「女人禁制」の開放運動の一環として、「大峰山」を維持管理する関係者と「話し合い」をしたいと希ってきた。
 そしてこの度、三本山の一つである金峯山寺の金峯修験宗宗務総長である田中利典さんへのインタビューが実現した。日時は2011年10月9日10時から。場所は金峯山寺宗務庁であった。
 当日、「求める会」の世話人4人が宗務庁応接間において田中さんに聞き取りを行った。同日の夜は蔵王堂で歌舞伎が催されるため、その準備等忙しいなかで約1時間半にわたって話を聞くことができた。
 以下は、そのときの聞き取りの「要約」で、後日、田中さん自らに手を入れていただき、ホームページ掲載の許可をいただいた。
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田中利典さん(金峯修験本宗宗務総長)のインタビュー(要旨)
・2000年の役行者千三百年御遠忌を、醍醐寺・聖護院・金峯山寺の修験三本山が合同で協力して迎えるために、三本山での協議が始まり、合同法要や役行者特別展覧会などいろんな事業を行ったが、その中の一つとして大峯山の「女人禁制」の問題を協議した。論議する以上、開けることが前提でなければ論議にならないということがあった。
今となって考えると、「女人禁制」はまず「内部」の問題を大事にすべきなのに、「外部」の問題を優先した感じがする。そういう意味では「内部」の意見を充分に確立できずに乱暴な提案になって、洞川や役講社の理解が得られないままに、頓挫した。そのときは、開放するための「声明文」まで用意したが、結果的に頓挫したのは「役行者の神慮」が働いたと思っている。
・大峯信仰は第一義的には「大峯山」修験の信仰を守ることだと考えるが、大峯信仰のアイデンティティーには「女人禁制」が持つ山上ヶ岳一帯の非日常性や、歴史性による聖地性が強く影響している。そう言う意味で現在の大峯信仰は「女人禁制」をはずして聖地性が保たれるとは思えない。
富士山に登って感じたことであるが、「女人禁制」を解いたために大衆化が進みすぎ、信仰の山から観光の山となり、神さびたものや聖なるものが人々から失われたのではないだろうか。明治以降の欧米化による日本人の価値観の変容には、一神教及び近代化によって聖なるものを俗化させた弊害がある。個人的には、女性がいないというコスモゾーン(宇宙観)の存在の大きさを、そのときに感じた。これは宗教上の問題であるだけに、「女人禁制」をなくすことには、信仰上のアイデンティティーを損なう恐れを感じる。聖地性を保つためにも、継続する方がいいと今は考えるようになった。
・「大峯山」に関わる人の思いからすれば、大峯信仰が守られてきたひとつの要素として、女性がいないコスモゾーンによって聖地性が保たれた部分は否めない。大峯信仰は、欧米的な自由平等や人権、男女差別、あるいは金銭的な問題からのアプローチよりも、宗教性、地域性が育んできた風土に意義があると私は思っている。
13年前、信者の減少などの問題を視野に入れ女性信者への開放も考えたが、グローバリゼーションの行き詰まりや近代という幻想が暴かれた今、霊山の持つ宇宙観・信仰の観点から考えることが重要だと思っている。
・私自身は「大峯山」の「女人禁制」をどうすることが修験信仰にとって大事なのか、開ける開けないの問題を通じて真剣に向き合ってきたつもりである。明治政府の政策によっても「女人禁制」を解くことがなく、2000年の役行者御遠忌を前に「女人禁制」について三本山と大峯山寺で協議したが開かれなかった。それらの結果は、最終的にはご本尊と役行者が決められたことだと思っている。
大峯信仰が今日も受け継がれていることは奇蹟であり、人間の都合のようなもので「女人禁制」を解いていいのかと考え続けている。富士山だけでなく、月山、彦山、白山などの聖地性が消えていくのをみても、「女人禁制」区域があることで信仰や聖地性が保たれ、大峯信仰が続いている現実は、「女人禁制」を「神慮」の結果だと思うようになった。
・ジェンダーや人権という外からの声ではなく、信者から「女人禁制」に声が上がったときはまさに内部の問題として考えなければならないだろう。現在、本宗の教師は男性51%、女性49%であり、教師の資格を取っている女性は他の伝統教団よりもはるかに多いし、宗教儀礼や修行会にも男女が同様に出仕(参加)していて、宗門自体が女性を排斥しているわけではない。「女人禁制」の問題も宗門の女性の多くが是として受け入れているように感じる。もちろん少数だが、山上ヶ岳に登りたいという女性もいるが、このままにしてくれという声が多いようだ。決して、女性の声が出てきにくいということはないが、女性修行者にとってどうなんだということは大切に考えなくてはいけない。
・「女人禁制」区域だけでなく、聖地性は大峯連山全体にあるものと私は考えている。蔵王堂も「女人禁制」ではないが聖地性をもっているし、だれでもいつでもお参りするところ、すべての人に蔵王権現の御利益を授けるところとして、役行者は山上に対し、山下の蔵王堂を建立された。ただし現在の山上ヶ岳は「女人禁制」を解いたら俗化が進むだけで、聖地性は損なわれるし、大峰信仰自体を廃れさせていくのではないかと考えるので、「女人禁制」を解くべきではないだろう。
・奥駈道の荒廃は20年前ぐらいから顕著になった。憂慮しているだけでなく、行政にも働きかけて年一回、修験寺院と行政との保全のための協議会を持っているが、なかなか保全活動は進まないのが実情である。靡きの整備にしても国立公園内なので、環境省に伺いを立てなければならず時間がかかる。非力な自分の力だけでは限界を感じる。

・トランスジェンダーの方は、宗内にもおられる。得度されたときは男性だったが、教師資格を取る修行を終えられたときは女性として振る舞われていた。これらの方の「女人禁制」との関わりについては答えを持っているわけではなく、神慮が決めるのではないかと考える。
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 聞き取りの後の「求める会」の感想としては、前回の福井良盟さんの「男の甘えを許してほしい」にはあぜんとなったが、今回は田中利典さんの「神慮」ということばに驚いた。「女人禁制」を維持するための「方便」であろう。水戸黄門の「印籠」のように思えたものだ。ただし、水戸黄門は悪事を退治するときに使うが、田中さんの「神慮」は、「女人禁制」の開放を求めるわたしたちの運動を“退治”する?……。
「男の甘えを許してほしい」とか「神慮」という言い訳や理由が語られたが、「大峰山女人禁制」の開放に向けて、今後も「大峰山側」の方々とさらに話し合いを続けたい。
(2012年 1月 10日 [火曜日])

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