私たちは「大峰山女人禁制」の開放をもとめます

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活動報告(2016年03月)
金峯山宗務総長 五條永教さんのお話(2015年11月21日)

百日回峯行を満行して蔵王堂に到着した五條永教さん
(10日、吉野町吉野山の金峯山寺)

「38歳、若い宗務総長さんだ」とはお聞きしていましたが、お会いしてみると想像よりもっとお若く感じました。現在の役職に就かれた時、管長の職に就かれた五條良知猊下とご一緒に各所へ挨拶回りに行かれたそうですが、対応される方からかけられる言葉や示される座席の位置などから、「これは間違っておられるな」と感じることが度々だった(実際お供の人と間違われていた)とのことで、「それから、名札を付けるようにしています」と笑いながら胸の名札を指し示されるお顔には、満面の笑みがあふれていました。

10歳と4歳、2児のよきパパでもある永教さんは、お酒は1滴も飲めないそうです。奈良漬でも駄目とのことで、手土産のお菓子を喜んで受け取ってくださいました。お坊さん仲間から、「永教には気を付けろ、あいつは全部覚えているぞ」と冗談をいわれるそうですが、「実際全部覚えています」とおっしゃって、大爆笑となりました。また、60代の私たちがちょうど母親のような年代で親しみを感じてくださったようです。

初めて「大峰山」に登ったのは小学校6年生の時、しばらく間が空いて、高校生で2回目の大峰登山をした頃から、「僧侶になりたい」と思うようになったのだそうです。お若いけれど家庭的な問題などご苦労も多かったそうで、いろいろ遠回りはしたけれど、21歳の時に金峯山寺へ来て小僧から始まった正式な修行の中で、「自分の求めていたものはこれだ」と強く感じたそうです。

○修行は理不尽なこともあるし厳しいものであるが、この世界に入って嬉しかった。立派な使命感などないが、今ここにあるのは、ここでお仕えせよという仏さんのご意思であり、私はここにいさせてもらっている。
○「女人禁制」についてあまり考えたことはない。昔から続いてきたから、そういうことなんやろなと思っているが、女性差別であるとはまったく思わない。人間がしたことではあるが、神さん・仏さんがさせてはる。そうなるべくして、そうなった。人知を超えた神仏の何かがある。
○今生きている私たちはすぐに結果をほしがるが、人間の物差しと、神仏のそれは違う。開放されるべき時がきたら開放される。あなたたちが開放の運動をしていること、今こうしてお話させていただいていることにも全て意味がある。大きな流れの一部分なのだと思う。

 終始笑みを絶やさずお話される内容は、現状維持を支持するもので、これまでにもいろいろなお寺でいろいろな住職さんたちからお聞きしてきたものと大きな違いはありませんでした。でも、これまでにはない温かな何かを感じたのは私だけではないようでした。それは、その若さと純真さの中に、変化を恐れない柔軟さが垣間見えたからでしょうか。

インターネットで検索すると、2009年8月11日付「奈良新聞」に
◇ 吉野町吉野山の総本山金峯山寺(五條覚堯管長)から天川村山上ケ岳(1719メートル)の大峯山寺に100日続けて参拝する修験道の荒行「百日回峯(かいほう)行」に挑んでいた五條永教さん(32)が10日、満行を迎えた。
五條さんは僧や信者、近隣住民ら約80人の出迎えを受け、蔵王堂での満行式で五條管長から証書を受けた。
  同寺から大峯山寺までの参詣道は片道24キロの山道。百日回峯行は前半50日は1日に片道を歩き、山上で1日おきに宿泊。後半50日は日参で毎日深夜に出発し、午後に戻る。五條さんは戸開け式の5月3日から行に入った。
  五條さんはこの日午後2時40分ごろ同寺に戻った。五條管長から「(回峯行の途中に前管長が亡くなり)重い行だったと思う」と言葉を贈られると「ご本尊に大きなご加護をいただいた。支えていただいた多くの皆様のお陰です」と話した。
 五條さんは大阪府和泉市出身で平成11年に同寺入山。行の挑戦は昨年7月に思い立った。「言い訳せず、迷わず行動に移せる自分になるため」だったと言い、「どうして始めてしまったのかと思うこともあったが、ご本尊にお任せすることで乗り越えられた」と晴れやかな表情を見せていた。

 とありました。お会いする前にこの記事を読んでいたら、また感じが違っていたのかもしれません。
(2016年 3月 31日 [木曜日])

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